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シンちゃん/伝説の洞窟居酒屋「さざえ堂」店主

●福生に来たいきさつを教えて下さい。
最初、原宿に住んでたんだけど、そこのアパートが溜まり場になっちゃってやになって、どっかいい所ないかなぁ、と探してたら秋川町(現、あきる野市)草花という所があってその名前にひかれて来たんだよね、場所は多摩川の長田橋を越えたところにあるんだよ。
その草花をめざして来たら福生が近くにあったんだよ。それが35年前だね。

●何故、草花だったんですか。
名前がお花畑みたいなんで、のんびりできるかなあと思ってね。

●その時は何をやっていたんですか?
美術の専門学校にいってた。四ッ谷にある美術学校(たぶん、東洋美術学校)という専門学校。
草花に半年住んで、その後は拝島のハウスに住んだんだよ。パラダイスハウスっていうハウスだったな。コニタっていう交差点の近く。そこに1年住んで結婚して子供が出来たんだけど、ワシもかみさんも実家が広島でかみさんの「父危篤」の知らせが来て一時広島に帰ったんだよ。それが19才の時。それで看病とか1年ぐらいしてたんだけどやっぱ広島は面白くなくて福生にもどたんだよ。もどった時にハウスが空いてるいうんで瑞穂のジャパマハイツのハウスに住んでね。ハウスはその近くで何件かすみかえたよ。しかしその時は色々あそんだなあ。
いま詳しくは言えないけど(笑)
※インタビュー時、たまたまシンちゃんの娘さんの旦那さんが呑みに来てて、多くは話せなかった様子。

●絵は描いてたんですか。
いや、子育てをしてた。料理作ったりね、たいへんだったなあ。そして生活のために仕事を色々したよ。ちり紙交換とか、桃売りとか。
でも29才から31才までまた美学校に行きだしたんだよ。それでリトグラフにはまっちゃってね。むかしは印刷はほとんどリトグラフだったんだよ、缶詰めのラベルとかね。ロートレックなんかもリトグラフやってたよね。でっかいやつ。

●それではシンンちゃんはロートレックに憧れてたんですか。
いや、怠け者にあこがれてたんだよ。(笑)

●でも色々働いてたんでは。
怠け者になるために働いてたんだよ。(笑)

 

 

●この店の前に「ゼロ」という店をやられたきっかけは。
35才の時なんだけど行商はもういいかなーと思ってたら、かみさんが店でもやれば、って言ってくれて。全てを「ゼロ」に戻してやってみて、っていう意味でね。それで店の名前は「ゼロ」。

●絵をやってたシンちゃんのそんな店は芸術家が集まったのでは?
いや、怠け者が集まってた。(笑)ワークシャイていうのがいて。やる事はやってそれ以外はなんにもやらないって精神。毎日グジャグジャに集まってたね。49(ハードロックを中心としたライブハウス。現、crunkというクラヴ)とかUZUとかチキンシャックとかボロン邸(伝説の喫茶店)から流れて来る客が多かったね。その時色んなやつと出会ったよ。

●その頃、村上龍と出会ったと聞きましたが。
いや、そのまえのパラダイスハウスの頃だね。ワシの先輩がとにかく福生に面白いコがいるっていってそれで会いにアパートまで行ったんだけど、留守だったんだよね、それでも便所のまどから勝手にはいって、そしたら中が黒いビニールを張り巡らして真っ暗でビックリしたんだけど障子に穴が空いててそれが星見たいで綺麗だったね。部屋には高そうなオーディオがあって何聞いてるのかなあって針を落としたらジョンコルトレーンの「クルセママ」だったんだよね。
その時結局、彼には会えなかったんだけど、そのあと かみさんの親父さんの紹介で千葉の飯場に行く事になって、福生から10人ぐらいかり出されて行ったんだけど、その中に村上龍がいたんだよ。一ヶ月間、彼は真面目に働いてたよ、一緒に飯場の風呂も入ったりしたね。
それから別につきあいは付き合いはなく、彼は一年ぐらい福生に住んで、すぐ武蔵野の方に引っ越しちゃって会わなくなったんだけど、偶然ピンクフロイドのコンサートが箱根の山の中で会ってね、久々にそこで会ったのが最後だね。
村上龍は髪が長くてインドのサリーみたいのを着てたけど。ワシも昔は髪の毛は長かったんだよ。(笑)

●「ゼロ」をやめてまたこの店「さざえ堂」をやったのは何故ですか。
「ゼロ」は収集つかなくなっちゃって止めたんだけど、その後一年間行商したんだけどやっぱり行商できないってことでまた始めたんだよ。
今度は貝のさざえのようにあれもこれも手の届くようなお店でやろうと思ってね。

●はじめにお店をやってたころの福生と今の福生は違いますか?
大分若くなったよね、年齢層が。あと面白いやつがいなくなったかな。

●最後にシンちゃんにとって福生とは
ワシにとって古里だね。

●ありがとうございました!

 

 

香川慎一/KAGAWA SHINICHI
通称:シンちゃん。1950/1/31生まれ、広島県広島市出身。伝説のお好み焼きやさん「ゼロ」を作り、場所を変え名前を「さざえ堂」に。そこで毎夜数々の伝説を作る。鉄板で作る料理が中心でどれもボリューム満点で度迫力。ウコン茶ハイを飲みながらシンちゃんの広島訛りの話を聞いて酔う酒は格別。アメリカ人にも人気で肩を並べて座るのですぐに友達になれる。その後営業中に脳梗塞で倒れ、その危機を居合わせたアメリカ人が素早い対応をし命を取り留めましたが、残念ながらお店を存続できない身体になり現在「さざえ堂」は存在しません。